脳卒中で倒れた叔母を顧みて、頭痛解消にこだわりだした話

低気圧、二日酔い、疲労、首肩コリなどで頭痛は起きるため、とくに周囲を見渡せば頭痛持ちの方だらけです。慢性化すれば、生活に支障がでるほどの痛みとなります。

そのため、太古から頭痛薬が服用されていますし、現在でもよりよい頭痛治療が相も変わらず求められています。

そして話は少し逸れますが、ちょっと考えてみてください。

頭痛慣れしてしまった人が、平常時に起こる頭痛と、死に至る危険信号からくる頭痛とを、必ずしも正確に判別できるのかという疑問です。

 


今回は、慢性的な頭痛持ちであった叔母の突然死から、整体師として頭痛の解消にこだわりだした切っ掛け(理由)の話となります。


叔母は夫と学生の息子の3人家族で、小さい頃は子供つながりで一緒に遊びにつれて行ってもらった思い出があります。

ある日その叔母が倒れて病院に緊急搬送されたという連絡がありました。

普段通り夫とジムで運動した後、ジムのお風呂で一汗流し、脱衣所へ出ようとしたときに突然倒れたようです。運動できるほどの体調だったはずなのにです。

応急訓練を受けているジムの方が蘇生措置を行い、救急車がすぐ到着するなど、想定される対応が迅速に行われましたが、すでに本人の意識はありませんでした。
 

病院に家族や親族が到着すると、呼吸器につながれて静かに眠り続けている叔母がいました。

医者の説明では、手は尽くしたが、最悪な事態をすぐに迎えるか、意識が戻らないままの状態が続くかと瀬戸際とのことでした。

叔母の父と母が泣きながら呼び掛けても、叔母の兄弟がお前は頑張り屋だったと励ましても、叔母の夫と息子がじっと手を握って祈っても、何も反応がなく眠り続けていました。
 

数日後、叔母は一度も意識が戻ることなく亡くなりました。

その場にいた皆が、人があっという間に死ぬことを、記憶の中にしか叔母が存在しなくなったことを突き付けられました。


当時の私は恐怖しました。

だいたいのTVや書籍では、“普段と違う予兆”“異常を知らせる危険信号”があって、それらに気付いたら、早期に医療機関を受診するとしています。

しかし、実際には、何らかの原因で予兆や危険信号が発せられなかったり、本人が察知できない場合がありえるのです。

叔母は、頭痛持ちであったことも関与していないとは言えません。叔母に落ち度はないですが、それでも悔やまれるのです。


そのため、私は患者さんに頭痛の症状があった場合、本人があまり頭痛を気にしていないとしても、頭痛の解消に向けた施術を加えます。

患者さんの頭痛を改善して“頭痛慣れ”を解消しておけば、命の危険のある予兆や危険信号の頭痛に気付けると思うからです。

頭痛薬は痛みの伝達をブロックしますが、整体は体液循環(血液、リンパ、脳脊髄液等)の改善で痛みを緩和させます。

そこに整体の意義があると考え続けています。